(2026年7月号 日本音響学会誌 p. 424 ちょっとしたエッセイ)
物理学者・随筆家の寺田寅彦が昭和の初期に書いたエッセイに「音の世界」がある。そこには、音に関するいくつかの興味深い話が書かれている。
その一つに、蚊を呼び寄せる声の話がある。子供が「ムーン」と言うと蚊柱の蚊が寄ってくるのだそうだ。私も、蚊を引き寄せるカエルの声の「合成による分析」をしたことがある。これを本学会で発表したら、蚊を追い払う音を出す製品がありましたね、というコメントをいただいた。それは、寺田と私の話とは逆向きのことだった。
蓄音機を利用しておもしろい音が作れないか、という話も書かれている。潮汐昇降の曲線や、気圧の日々の変化の曲線、米相場や株式の高下の曲線など、変動する曲線を音にすれば、聞いてそれらの特徴を判別することが可能ではないかと。特徴抽出を、音を聞いて行うという、今でいえば、パターン認識の手法だ。さらに、人間の横顔の額から顎までの曲線を連ねて音にして、顔を聴き分けることも可能であるとも書いている。
私は40年ほど前、植物中の電流波形をコンピュータに取り込み、それを音にして交響曲を作る、という国営公園のプロジェクトに参加したことがある。これで、植物の心の動きを表現しようというのだ。
残念ながら、横顔曲線や植物電流波形は振動でないので普通の音にはならない。コンピュータに取り込む仕事はしたが、どのようにして曲を作ったのかは聞いていない。
だが、そのような曲線を音の高さの変化とみなせば、音にできることに今ごろ気がついた。琉球大学の研究室で開発した、音声合成スペクトル・エディタを使えば、即座にできる。先日、横顔曲線で音を作ってみた。さらに首里城の大龍柱の龍の横顔も使ってみた。音色は、音声学の知見から「アー」と「ウー」にした。
寺田が着想してから93年、音を作ってみた。音声と横顔の図はホームページ「音・話ことばの実験室」に置いた。寺田がこの音を聞いたら、「ウア~」と驚きの声を発してくれるだろうか。
