(2025年8月8日)
「木の上の軍隊」の原作と「ぬちどぅたから」、「伊江村史」を読んだとき知ったことなどを、補遺として記録する。
VHSビデオで「ガジュマルの上で暮らした兵士」について初めて知ったとき、私は、滑稽な感じさえした。木の下から住民、特に子供たちが呼び掛けても、兵士たちが降りてこない様子が目に浮かんだ。なぜ2年間も降りてこなかったのだろうか。兵士たちは、戦争後遺症に悩まされていたのかとも思ったものだ。実際は、論壇に書いたように、2年間、住民が全くいなかったので、呼びかけようもなかった。
「木の上の軍隊」の原作における第3場(木から降りて出ていく場面)での上官と新兵の会話は、おおむね次のようなものだった。新兵は、終戦を知っていた。「アメリカ軍も我々のことを知っている。我々はアメリカ軍に飼われていた」と言った。上官は、それでぶくぶくと太ったと言う。私にとって、これはまるで復帰前の本土と沖縄を象徴しているかのようだ。上官は、恥ずかしくて、木から降りて表へ出ることができなかったのだ。
伊江島戦の直前に、村民の多く約3,000人は本部・今帰仁・金武に疎開した。その人々は久志に移された。久志には伊江村ができた。伊江島で生き残った人々約2,000人は慶良間諸島へ送られ、1年後、本部・今帰仁へ送られた。伊江島戦が終結して2年後に、両者は、つづいて帰島した。
「伊江村史」に、伊江島戦の記述としては米軍記録の翻訳しかない。日本軍は完全に壊滅し、記録は焼失したのだろう。その後の聞き取り記録集がどこかにあるはずだ。
伊江村民は、久志で食糧難でずいぶん苦労した。兵士たちが確保していた食料は、伊江村史によれば、日本軍が隠ぺいしたもので、トラック1台分ほどあった。それは飢餓にあえぐ久志の伊江島住民にとって貴重な食料になるはずのものだった。
映画では上官と新兵が、戦時における本土と沖縄の家族について会話をしている。新兵は上官に「何のために戦争をするのでしょうか」と聞く。上官は「大切な家族を守り生かすためだ」と答える。新兵は「皆さんの家族は別のところにいるけれど、僕らの家族はこの戦場にいるんですよ。」と言う。映画ではここまでだ。
私は思う。渡嘉敷島で集団自決の現場にいた金城重明先生は、続けて「戦争は、大切な家族を殺めるためにあったのだ」と言うだろう。
私の妻は伊江島出身だ。戦争を生き抜いてくれた妻の両親に心から感謝したい。おかげで、子や孫がいて、妻とともに幸福な人生を歩むことができた。
私の父は、大戦中、兵士として満州の戦場を生き抜いた。また敗戦後3年間シベリアで厳しい捕虜生活に耐えてきた。母は、台湾で軍属として空襲から生き延びた。
人は、人生とは何か、自分は何者なのか、と問うとき、ルーツをたどりたくなるものだ。私たちにとってルーツは、大昔のことではない。戦争において途絶えたかもしれない命を、私たちにつないでくれた、直近の両親こそルーツなのだと改めて思う。このルーツからの命を、この話とともに、今後も大切に伝えていきたい。